白川村

 白川村は浄土寺村の北にあたり、如意ヶ嶽北麓の白川山を背に開けた北白川谷口扇状地の傾斜段立に位置し、村の中を東から南西に、山中越沿いに白川が流れる。

[ 山城名勝志 ] によると、白川より北を北白川、南を南白川と称した。明徳二年十一月二十六日に、白川、浄土寺の人々が吉田社神人と闘い、この頃すでに村としての集落があったと思われる。

 

 この地より近江志■里や■橋、坂本に至る志賀の三城や白川の景趣は古来より多くの歌が詠まれている。 [ 都名所図会 ] の [ 北白川 ] の頂によると

 

   この里は洛(みやこ) より近江の志賀坂本への往還なり。志賀山城といふ。(中略)川の半に橋ありて初は右手(めて) 二見し流も、いつとなく左手(ゆんで) になりて、谷の水音淅瀝として、深山がくれの花を見、岩ばしる流清くみて、皎潔たる月の影 閙(いそがは) しく、橋のほとりに牛石といふあり。形は牛の臥したるに似たり。 是より東に山中の里あり。比叡の無動寺へは、此村はづれの細道より北に入る。

 

 と記している。又、 [ 北白川の里人は、石工を業として常に山に入て石を切出し、燈篭、手水鉢、其外さまざまなものを作り ] とある。

 

 元和九年以降禁裏御料となっているが延宝三年の禁中院中御料 (内閣文庫藏)にはみえず。なんらかの理由で禁裏御料からはずされている。

享保一四年の山城国髙八郡村帳では髙一千石が京都代官支配地で、一一六石一升が聖護院門跡の隠居所で、村内にあった照髙院の支配であった。

 元禄期前後は照髙院が無住のため照髙院領も代官所支配地となったが昭和七年照髙院が聖護院の兼帯所となって再び門跡領として確定した。

 村には聖護院の代官が照髙院に常駐していた。

      村の運営方法は

               庄屋  二名 

               年寄  四名

               頭百姓 若干名

によって組織され、その下に三種類の寄合があった。寄合とは、

() 本百姓による百姓髙持寄合。村内のの溜池普請、水論などの話し合いなど行い。

() 村方三役の会所寄合。代官所がらの通達実施の話合いが行われる。

() 村寄合。 会所寄合の決定を村民に伝達・徹底する寄合である。

 

この三つの寄合が主体となって白川を運営されていた。

又、吉田郷と白川村との芝草をめぐる相論や白川をめぐる浄土寺村との水相論もしばしば行われていた。

 

  天文一六年、將軍足利義輝、父義晴の居城となった北白川城 (凡生山城) が細川晴元に攻撃されたとき、村は焼失し、天正元年、織田信長の上京焼打ちのときも累が及んだようである。

 その後、江戸時代の享保九年四月八日、二六四軒が焼失している。

天保元年一月三日の [ もえもんやけ ] と呼ばれた大火では、白川村中之町、茂右衛門方より出火 上之町、下之町、分木町、川原町一帯の民家二二○軒の内一八六軒、他に寺庵など八軒が焼けた。加えて翌二年の地震で焼け残りの藏も崩れた。

 平安時代より、土地の花を洛中に売り歩いた白川女の里として知られ、明治になってから伝統の白川女、石材業の他、白川の水を利用した精米、製針伸銅業が発達し都市化現象が進んだがその後住宅地域となり今日に至った。

 

二、瓜山城跡 (北白川清沢口)

 一乗寺に境してそびえる瓜生山に築かれた城。勝軍地藏山城 (北白川城) ともいう。

 

天文|永禄 (室町末期) の内乱期には細川、三好、松永の軍と將軍足利義晴、義輝父子の軍が戦った。

 爪生山に城が築かれたのは大永七年 (室町中頃) に細川髙国の築城による。その後築城して四年後の享禄四年六月六日細川髙国の敗北のときに炎上した。

 後、天文一六年三月三〇日、將軍足利義輝父子が細川晴元を討つため      ( 北白川城) に入ったが、同年七月一三日相国寺に陣取った細川晴元軍に攻められ、一九日に落城炎上した。

 城跡は山頂より東の地蔵谷に至る一帯と言われ、付近にはトリデ山、デマル、ヤカタ山等の城郭ゆかりの地名が残っている。

 

 

三、北白川遺跡群 ( 追分町・小倉町・上終町・別当町 ) 

 白川の黒雲母花岡岩砂礫の推積によって出来た北白川扇状地に立地する縄文時代各期に渡り遺跡軍である。

 この遺跡の内、最も古いのは、上終町遺跡で縄文早期の山形押型文土器庁が出土し、その後も前・中・後期まで断続的に続いて後期前中頃に盛期を迎えている。

 北白川遺跡として古人から知られていた小倉町遺跡と別当町遺跡は、縄文時代に最も栄え、後期になって再び生活痕跡が認められた。

両遺跡跡出土の前期に属する各型式の土器は、

           ( 北白川下属式 ) と命名され、近畿地方における縄文前期の標識土器となっている。

 追分町遺跡では、中期末|後期初頭の遺産が出土している。

北白川遺跡郡は、縄文時代の京都盆地における遺物が出土している。

北白川遺跡郡は、縄文時代の京都盆地における中心的な生活舞古として縄文各期における集落が継続して営まれていた。

 

四、 北白川廃寺跡  ( 上終町・東瀬ノ内町 )

 

 平安京遷都以前に造営された一寺院である。

昭和九年に東方建物基壇が発掘された。塔の西南で基壇積土発見されたがこれ以外の遺構は不明である。

 遺構は白川の形成する扇状地上にあって、標髙七五||八〇メ|トル、三城盆地中心部より約三〇メ|トル以上髙く、盆地内を一望できる場所にあった。

 東方建物は、基壇が東西、四メ|トル、南北二三メ|トルで瓦積み基壇であった。

廃寺跡の調査によると、出土した遺物の大多数は瓦類であったが、いずれも出土点数がわずかであったので、寺院創建時にどの形式瓦類が使用されていたか不明である。あったので、寺院創建時にどの瓦類が使用されていたか不明である。しかしすべて奈良時代前期の形式で、本寺創建もこの頃と推定されている。

 なお、出土した瓦のなかに ( 巴文軒丸瓦 ) があることから、この寺は鎌倉時代まで存続していたとみられる。

 

五、 照髙院宮雪輪御殿 ( 仕伏町 )

 

もと東山妙法院( 現東山区 ) に豊臣秀吉の信を得た天台僧、道証僧正が開基したが元和元年方広鐘事件( 国家安康 ) に連座して徳川家康の怒りに触れ堂宇は破壊されて寺領は破奪された。後元和五年、後陽成天皇の第興意法親王が伏見城二の丸、松丸殿の建物を譲受け、照髙院を白川村外山( 伏見町 ) に再建された。( 寺領一千石 ) 御殿の当時の面影をみるに、照髙院御殿は、総門・四足門・台所・松丸殿・仏殿・広間殿・書院・学問所・渡廊下等からなり、総門は、北白川街道路地筋に西向きに建ち、一寸三尺本瓦茸屋根で、白川の流れには橋があり、巾三間、長さ七十五間の杉並木道より御殿に至った。

 享保一〇年、霊元院が照髙院へ赴いた際の見聞が( 元陵御記 )上巻に記されて、それに( まず客殿をぞ見る(中略)、さらばひろびろとして、座席は、墨絵泥引なれど、小壁天井格子のうちなど、濃き色どりの花、さまざまかけり。客殿見わたりてのち書院の方を見る、まずちいさき間に白象を書きたり探幽法印が絵なり。

 それより奥にゆけば書院なり。ひろき書院の前、泉水なり、池の東北の方に滝おつ。)

とある。御殿内の天井格子、各書院、御居間等には、

          近江八景の図     紅葉の図

          竹林七賢人の図    柳にさぎの図

          山   水  画     舟中管絃の図 

          東波季節雅の図    田に雁の図

等が画かれ、いずれも

         狩野探画・永徳・常信・氏信・孝信・等の筆になる。

明治になってから北白川宮を称され、明治八年、北白川宮能久親王が東京に移住された時、堂宇は取壊され一部は東京に移され、又その一部は聖護院門跡に移された。

 現在では、その面影もなく、ただの石垣の一部が残るのみである。

 

六、 勝軍地蔵菩薩  ( 瓜生山、 山ノ元町 )

 

本尊( 石像 )は智證大師の作と伝えられている。

地蔵菩薩は頭に畢竟空●の兜を頂き、身には随求陀羅尼の鎧を着け、左手に発心信行の幡を持ち、右手に悪行煩悩の軍に勝つの剣とりたまう。

 元は現在地より東北約一キロ余の山上に足利氏が築城したとき、その廊内に石窋を築いてその中に安置してあった。この山を爪生といった。この地蔵菩薩は照髙院宮道晃親王より代々宮家の御念●仏であった。享保年間本道を南向に御造営なったが、忠誉親王の代になって参●人の便宣を思召され現在の地元丸山を爪生山と改められ地蔵堂を現在地におうつしになり今日に至る。

 

                                                    以上

                                    本項の資料は、日本歴史地名

                                    大系より適宣抜粋してまとめ

                                    たことをお断りする。

                                                 吉村  新