六、十六老分の始まりとその制度

元和五年 (江戸初期) 照髙院法主興意法親王の時、白川の里 (現仕伏町) に伏見城二の丸の建物を運び雄大な御殿を建てられ里人たちは、白川御殿とも雪輪の御所とも申していた。

以後同周、道晃、道尊、忠誉の四法主法親王を経て、明和七年まで続いたがその後、約百年程の間は聖護院の支配になり法王を置かなかったが、明治元年智成親王が照髙院主となられた。(明治三年照髙院を改め北白川宮となられた。)

照髙院法王、道晃親王は特に里人との親しみが強くその徳を慕い奉つていた。

照髙院宮のご紋賞は雪輪の芯をもつ菊花を紋章としておられた関係から雪輪菊を形どり十六弁の菊花にちなんで、鉾に奉仕する十六人が集まり、照髙院のご紋章を表したのが十六人老分組織の始まりである。

以後、二、三の各鉾も一之鉾を基本としてこれに習い、各鉾とも、一人欠員になれば次の人が入り、絶えず十六人の数を守り、天神宮に奉仕した習慣が現今に受け継がれている。

因みに十六人老分になるまでの順をみるに

交り子・鉦すり・鉾の [ふくちり] 持ち・当人・中老・老分・

と定められている。

各鉾とも十六老分の内、最上位の者を壱老(壱番尉)といって最良の待遇を受けていた。

又、十六人の最下位の者は次の者が入るまで [使番] として奉仕する。

(壱之鉾は申し合わせにより、使番制度を廃止された。)

一 白川の里人について
二、北白川天神宮縁起
三、 髙盛 (朝御饌の儀:あさみけのぎ)
四、祭式について
五、鉾の由来について
六、十六老分の始まりとその制度