氏神と鉾に奉仕することを目的に組織された十六人老分によって、黒鉾を維持してゆくためには当然経済的な要素が含まれてきた。
ここにおいて、鉾に奉仕する十六人老分の [家] を中心としてその血族、姻族等の関係者が組織し、経済的に援助する [鉾] の運営制度が出来たものと思われる。
即ち、当初白川村の全戸数の内、壱之鉾の仲間として約四十戸位が「
[仲間株] をもって組織され、氏神を中心として運営されていた。
その後、貮之鉾八十戸位、参之鉾約九十戸位が遂次これにならっていった。この [仲間株] は土着の者以外は他からの加入は一切許さずこの戸数の者を真の産土子として権威をもっていた。
このようにして白川の里人の内、鉾に奉仕した [家] をもって組織化され永久に変わることのない [権利] をもった [家] が [鉾仲間の家株] とゆう呼び方で現在に受け継がれている。
因みに、初めて壱之鉾を組織した当時、 [鉾仲間] の家は
大槻・中山・吉村姓を名乗る[氏]に集中していたのが特色であった。