無形民俗文化財1
種別:無形民俗文化財(風俗慣習等) (登録)
名称:北白川天神宮の剣鉾差し
保存団体:北白川伝統文化保存会
保存団体所在地: 京都市左京区北白川仕伏町○○○
適用基準: 第2-4
無形民俗文化財1
説明:
左京区北白川 (かつての愛宕郡白川村) は、大文字送り火で知られる如意ヶ 嶽を水源とする白川の谷口集落で、 京都と近江を結ぶ志賀越 (街道) に沿って 旧集落が形成される。 産土神である北白川天神宮の氏子の旧家は、家筋によ って壱之鉾仲間 弐之鉾仲間、 参之鉾仲間のいずれかに所属し、 それぞれが 剣鉾を護持している。
剣鉾とは、 祇園祭の山鉾と同じく、御霊信仰に基づく祭礼が母体であり、 神輿渡御を先導して浄める役割を持つとされる。 剣鉾は、 近世期に舁鉾、曳 鉾など多様化したが、中世以来の差鉾による剣鉾差しは、剣鉾行事の典型と して、現在も市内各地で行われている。 また、 差鉾を差す技術をもつ 「鉾差 し」を輩出する地域は、鹿ケ谷から一乗寺にかけての東山山麓、 嵯峨祭の氏 子地域、梅ケ畑・高雄などであり、 それぞれ差し方に特徴がある。
北白川天神宮の秋季大祭は10月上旬に行われる。 第一土曜日から翌日にか けて高盛御供の調製及び献饌がある。 その後、 水曜日の鉾立て、木曜日に神 幸祭、 そして第二日曜日に還幸祭を迎える。 鉾立ては、早朝から各鉾仲間が 時間差を設けて、 剣鉾部材一式を御旅所の神輿倉から各鉾仲間のヤドに運ぶ ヤドでは 「天神宮」の神号軸を中心に祭壇を組み、 剣鉾は玄関先に支持台 を設けて立てる。 神幸祭の日は、午前10時頃から各鉾仲間のヤドで宴席が あり、 三獻の儀が行われる。 その際、 「サンヤレ」と唱えて祝う。午後は神 輿の先触れとして剣鉾が1基 (鉾仲間の輪番)、神輿、騎馬宮司などによる 巡幸列が氏子地域を一巡する。 行列の次第は、 社名旗、 騎馬神職、御榊、剣 鉾4基程度、太鼓、 花傘、 稚児、 奉賛会旗、敬神会旗、提燈、神輿、巫女、 騎馬宮司、氏子総代の順である。
北白川天神宮の祭礼は、 安永9年(1780) 『都名所図会』に 「土人生土神 とする、例祭は九月十三日、神輿一基、鳥居の額、道晃法親王御筆なり」と ある。 明治に入って10月19日が氏神例祭日となった。 昭和16年(1941)か ら昭和22年(1947)までの7年間の中断を経て後、昭和27年(1952)に 関係者の総意をもって5月6日神幸祭、 同月9日還幸祭となった。 その後 平成20年(2008) から、5月1日に神幸祭、4日に還幸祭が行われてい る。
祭りの間、 壱之鉾仲間がヤドに飾る黒鉾には、茎に延喜8年(908)の陰 刻があり、○○ (********)から下賜されたと伝える。 その形状は剣鉾の剣 の輪郭に近いが、鉄製で肉厚であることから、剣鉾として使用されたもので はないが、 壱之鉾の象徴として重要である。 また、一条兼良 (14021481) の 『尺素往来』に登場する 「白河鉾」は、この地域から祇園会に出されたもの とされるが、その形状は不明であり、剣鉾との関係は不明である。
○○仲間のの剣鉾は寛保3年(1743) の吹散の箱書により前陣の鉾とわか る。その剣銘には、寛文10年(1670) と延享3年(1746) 2度の改造を 経たとあり、それ以前から伝来する剣鉾であることを窺わせる。また、同銘 から、延享年間には○○仲間に観音鉾講中が成立していたこともわかる。
その他の剣鉾の年紀は、やや時代が下がる。 ○○仲間の扇鉾の箱には寛 保3年(1743)、額には寛政10年(1798)とある。 若王子町の剣箱には宝 暦12年(1762)に「新鉾」が製作されたと記される。 ○○仲間の牡丹鉾には 寛政2年(1790)と享和2年(1802)の年紀を持つ箱があり、後者から 「鉾中間」の存在が確認できる。
北白川では、平成○年 (19*) 頃までは、一乗寺から鉾差しを呼んでいた 。その後、 北白川の有志も鉾差しの一員に加わるようになり、平成○年 (19*)頃以降は、 北白川の鉾差しを中心に、東山系の鉾差しが協力する体 制となった。
北白川天神宮の剣鉾差しは、 鉾仲間によって剣鉾が護持される京都の剣鉾 行事の典型例であり、近世初期から現在のような鉾祭りの形態が整えられて
いった様子も窺える。 また、 明治以降に ・・・・となった。 これらのこと から、北白川天神宮の剣鉾差しは、京都における代表的な剣鉾差しの行事の ひとつとして、重要なものといえる。
〈参考文献〉
奈良文化財研究所文化遺産部景観研究室編(2013) 『京都岡崎の文化的景観調査報告書』 京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編(2016) 『京都 剣鉾のまつり調査報 告書』
* 加筆検討
〇日の午後、宮司は各町のトウヤを訪れ、 祭壇でお祓いをする。
火災により古文書が失われて、 詳細はわからない。
石工が自ら使用する道具の製作に携わり、鉄製品を自作する慣習があることが、背景にある
かもしれない。
現存遺品の銘文、
鉾仲間の成立、 親王の筆から鉾祭りの成立も類推。
道晃法親王